お兄ちゃんも辛かっただろうな。悔しかったかもしれない。それでも鈴さんの事を世間にバラして騒ぎを起こしたりしなかったのは、やっぱり唐渓を敵にまわしたくなかったから?
「唐渓を悪く言うのは止めた方がいい。これは君の保身の為に言う」
兄は小さい頃から真面目で、正義感も強い方だった。唐草ハウスでボランティア活動を行っていたのだって、少なくとも母のような考えに基づいての行動ではないはずだ。そんな兄が保身のために口を噤むとは思えない。考えられるとするならば、父や母に迷惑を掛けたくないと思ったか、それとも―――
そこでツバサは少しだけ視線を落す。
私の為か。
目の前のオレンジジュース。鮮やかで、爽やかで、何も知らずに無邪気に輝く。
兄が唐渓を中退したのは高校二年の時。ツバサは小学五年だった。田代里奈が入学説明会を受けに行ったまさに同じ日、ツバサも同じように説明を聞きに行っていたはずだ。
説明会は五年生の七月だったと記憶している。その時、里奈は織笠鈴に会った。その数ヵ月後に命を落とし、兄は姿を消す。そんな事など知るよしもなく、ツバサは母に手を引かれて中学受験についての説明を聞いた。
受験するかどうかを迷っていた里奈と違い、ツバサは試験さえパスすれば入学するのは決まっていた。ツバサの両親も、そしてツバサ自身も、唐渓へ進む事に一抹の疑問も抱いてはいなかった。自分も唐渓へ進学するのは、ごく当然の事と考えていた。
自分が無茶な行動を起こせばこれから入学してくる妹にも迷惑が掛かる。そう考えたのだろうか?
唐渓は親族の動向も影響する世界なので、そう考えても不思議ではない。高校二年生が考えるにはあまりに大人びていると思われるかもしれないが、唐渓に通う生徒たちの多くはそのような考えを小さいうちから摺り込まれているようだし、なにより兄は聡明で思慮深かった。
だがツバサは、そんな兄を嬉しいとは思わない。
どうせ兄は自分に嫌われていた事は知っていたのだ。兄妹愛でそのような行動を取ったのではない。きっと、妹にまで火の粉が降りかかって両親に咎められたりするのが嫌だったのだろう。口うるさくネチネチと責める両親を想像し、煩わしいと思ったのかもしれない。私の為と言うより、自分の為だったのだ。
頭良過ぎだよ。
ツバサは心内でため息をつく。
結局、考えたところで推測にしかならない。やっぱり本人に聞かないと。
本当の事、知りたいな。
だが、滋賀まで足を伸ばしてみても、智論が最初に告げた通り、兄の居場所は皆目見当もつかない。
何か他に手掛かりないかな? 智論さんの言葉の中に、何かヒントになるようなのってなかったかな?
聞かされた話を頭の中でひっくり返し、何か聞き落としてはいないかと必死に探す。そうして、ふと右手を唇に当てた。
「あの、小窪さん」
「なぁに?」
「霞流さんって人、知ってますよね?」
その一言に、智論よりも反応したのは美鶴だった。だがツバサには、真横に座っている美鶴の反応は見えない。
一方、過度に肩を動かした美鶴の反応にハッキリと気付いた智論は、気付かぬフリを装いながら務めて何でもないと言うように返答する。
「霞流?」
「はい」
ツバサは唇に手を当てたまま記憶を手繰る。
「唐草ハウスの安績さんに小窪さんの名前を聞いた時に、一緒に教えてもらったんです。霞流って人も何か知ってるんじゃないかって。そうだっ」
ツバサは顔をあげ、唇に当てていた右手の人差指をピンッと立てる。
「智論さん、唐草ハウスへは二回行ってるでしょう?」
そうだ。安績はそう言ったはずだ。智論は二回ここに来た、と。
「二回目に行った時、霞流って人と一緒だったって安績さんが言ってたんですよ」
智論は一瞬迷った。そうして、尋ねてきたツバサとではなく、隣の美鶴と視線を交わらせ、少しだけ瞳を細める。
「えぇ、行ったわ。慎二と一緒に」
美鶴に同席するよう言った時に、決心はついていたはずだった。だがやはり、心のどこかで迷っていた。その迷いが、慎二の名前を口にする事を躊躇ためらわせていた。
あぁ、やっぱり慎二の名前を出さずに事を説明するのは無理なのか。
美鶴の瞳がグラリと揺れるのを見届けてから、ツバサへ視線を戻す。
「その人もやっぱり小窪さんみたいに、学校の対応に不満があったんですか?」
「いえ、違うわ。慎二は違う、と思う」
語尾を言い澱ませ、慎重に言葉を選ぶように口を数度開いたり閉じたりしてから、改めてツバサと向かい合う。
「慎二はきっと、涼木先輩に謝りたかったんだと思う」
実際、霞流慎二は唐草ハウスの庭で、涼木魁流へ向かって詫びの言葉を口にした。
「本当に、申し訳なかった」
「謝る? 誰にですか?」
「あなたのお兄さんに」
「え? どうして?」
キョトンと目を丸くするツバサに、智論は力なく笑った。
「慎二は、桐井先輩と付き合っていたの。桐井愛華は慎二の彼女だったのよ」
ドクンッと、美鶴の心臓が跳ねた。
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